貞享、元禄の昔から明治初期に至るまで、盂蘭盆(うらぼん)になると、七墓巡りと称して、7ケ所のお墓を参る習慣があったそうです。大阪七墓。今も少しは残っていますが、天神橋六丁目にも「葭原墓地」の名残として沖向地蔵があります。沖向地蔵さんはお参りする人も多いです。地域住民に愛されている証拠でしょうか。またお地蔵さんには下記のような由来が書いたものがあります。
由緒書き 『沖向地蔵尊由来』
西暦645年大化の改新が行われ、都が難波長柄豊崎に移され、色々の改革が着々と進んでいた頃、行基菩薩 (668-749)は大阪の南から北にかけて七カ所の墓地を作り、大阪七墓と称された。そのうちの1つが天満葭原のこの地の墓地であった。こののち法然(1133-1212)によって開かれた浄土宗ではこの墓地を守るため西の坊というお寺を建立した。その当時この付近は大阪湾の海岸線に近く、葭(葦)の生い茂る地帯で、この通りも昭和の末期(1980-1990)までは葭原(吉原)通りと呼ばれていた。このお寺にこの地蔵尊 阿弥陀如来、勢至菩薩が併祀された。その後海岸線は土砂も堆積し、近代は盛んに埋め立てもされ、建物も多く建って、現在ではとても海は見えないが、当時はお地蔵様の正面、西の方に海を見渡すことが出来たので、沖向地蔵尊と呼ばれるようになった由である。
大正10年(1921年) 大阪市がこの地に北市民館を建設するに当たり、この墓地は 現在の長柄墓地に移転されこの地蔵尊の堂宇のみ残された。10世紀に亘る度々の淀川の氾濫、最近では明治18年(1885年)の大洪水にも耐え、さらに昭和20年(1945年)3月の大阪大空襲にも付近一帯焼夷弾による大被害を蒙ったにもかかわらずこの堂宇は焼失を免れ、霊験あらたかなお地蔵さんと地域の人々に信仰され親しまれている。
ただ 堂宇は年代を経て 老朽化が著しいため平成15年(2003年)隣接の太田診療所の新築と同時に建て替えられ現在のお姿となっている。天六東通り商店会会長 川島長利 撰文
沖という字と西向きの意味は
沖向地蔵って名前も気になるのですが実は大昔ここが海と陸地の境であり、ここで海に日が沈む光景が見れたのでしょうね。西向きと言うのは沈む太陽に向かってお地蔵さんが建っていたのでしょう。
都が難波長柄豊崎(今の大阪城の南あたり)に移った頃のこの辺りは行基菩薩 (668-749)さんが大活躍したようで北区のあちこちで行基菩薩 (668-749)の名前を見ます。行基菩薩 (668-749)に関してはまた取り上げていきたいと思います。
名称:沖向地蔵
〒530-0041 大阪府大阪市北区天神橋6-2-14
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