昔の面影が全くない二条駅の手がかりを探しに
久しぶりに京都のJR山陰線二条駅近くに行く用事ができたので懐かしのJR山陰線二条駅周辺に私の子供のころの面影を探しに行ってきました。JR山陰線二条駅は1990年代までは地上にあり、高架とともに駅周辺ががらりと変わりました。そんな25年以上も前の記憶をたよりに歩いてみました。
二条駅は貴賓室もあった立派な駅だった
JR山陰線二条駅は地上駅時代にあった木造駅舎は、荘厳な社寺を彷彿とさせる造りや貴賓室も設置された立派な駅舎として全国的に知られていた。
建築当時は京都鉄道の本社を兼ねており、建築家の伊東忠太によって手掛けられたものである。京都鉄道社長田中源太郎によれば、当初はレンガ造りの計画だったが、二条城に近いので景観に配慮して和風建築に改めることにし、日本鉄道(東北本線)宇都宮駅の駅舎が優美であったため同社に問い合わせを行い模範としたという。
山陰線の高架工事で15mほど移動したあとに梅小路蒸気機関車館に移転された。
そして新しくできた高架駅はこんな感じである
小さいころ二条駅の近くで遊ぶのが好きだった。
小さいときは二条駅周辺を探検するのが大好きでした。山陰線は当時単線で列車本数も少ないために駅の周りをあることが楽しみでした。まずは二条駅構内の係留された581系を見ながら反対側の貨物駅があったあたりに大量に置いてあるタンク車を眺めていたものだ。二条駅から花園駅(当時は円町駅が無かった)に歩いて行った1つ目の踏切あたりに陸橋があって、駅で時刻を調べてはこの陸橋の上で電車を見るのが楽しみでた。この陸橋は電化と同時に取り壊されました。高さがぎりぎりで電化後には対応できなかった陸橋です。この陸橋近くに踏み切りがあるのになぜあったのか今思えば不思議です。下は線路が2本ありましたが、当時は単線でしたので安全側線的な意味があったのか、貨物の詰め替え用の線路の延長なのか、わかりません。
またこの近くに壁が赤色で提灯がつってある民家があったような気がします。あの建物はなんだったのだろうか?
そんな記憶の一部をタイトーさんの電車でGoが再現してくれています。
581系が係留されている二条駅構内。
この当時ってまとなったら伝説の車両が野ざらしで放置されてましたよね。あのころ私は長野県の岡谷駅にこの子が見たくて行きたくて仕方ありませんでした。
そしてこれが背の低い陸橋です。
など当時を思い出しながら探索しました。
陸橋があるあたりと思える場所から二条駅を写した写真が掲載されているサイトを発見
陸橋からDD54を撮影しているサイトも発見。気になっていた赤い屋根の提灯をぶら下げている建物も写っている!
この陸橋は駅からの直線がちょうどカーブになったあたりの踏切の先と言う事と陸橋を渡った所に自動車教習所があるので場所の特定は容易だろうと思いいざ現地へ
当時は駅で行き止まりだった御池通を線路をくぐり駅と反対側へこの下を今は地下鉄が走っているのもびっくりですが、タンク車が係留されていた駅の反対側の貨物駅は見る影もありませんでした。
線路沿いを北に向かうと教習所が見えてきました。教習所ごしに山陰線が見えます。
そしておそらくはここかな?と思う場所に行くのですが、決定的なこれ!と言うのが見当たりません。困った。とりあえずここだと言うあたりをカメラにおさめて帰ってから調べなおすことにしました。
そして帰ってからやっと思っていた場所で間違いない証拠が見つかりました。その写真がこれです。
この高架下に見えるイセヤさんの看板が下のリンク先の3枚目にある陸橋が写っている写真の右端にある「伊勢屋」さんのある場所で間違いないと思います。屋号が同じと言うのと線路の曲がり具合が一緒です。
そんな感じでとりあえず思い出の場所が特定できてよかったです。
ところで記事に書いている赤い壁の提灯つってあるあの建物が何屋さんだったのか知ってる方がいらっしゃれば是非教えてくださいませ。
名称:山陰線二条駅北の陸橋
場所:〒604-8403 京都府京都市中京区聚楽廻中町付近
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